目に見えないものも

 

 最近、坂口恭平さんの絵に触発されパステルを買った。
坂口さんの描く風景は、坂口さんの目を通して見たものであるのだけれど、誰の心にもその風景があるような、そんなきれいさだ。Youtubeに坂口さんの描く動画があって、その指先から魔法のように水面や日の光が生まれて、そんな魔法を自分も使いたいと思って36色の杖を手に入れたのだ。

 早速杖を片手に紙の上で腕を振ったのだが、そこにはただパステルの色があるばかりで、ちっとも絵にならない。自分の目の前にあるグレーだと思っていた色が、全然その色にならないのだ。これは困った。
困ったので図書館に行き色彩についての本を借りてきて読んだ。

 

「果物のオレンジは、ブルーの照明を当ててもオレンジ色として判断されます。(中略)たいていの場合、私たちは自分が見ようと思う通りのものを見ているのです。自分がこのようなものの見方をしていることを見越し、恒常性を断ち切るためには、モノの見方を変えなければなりません。」(ベティ・エドワーズ『色彩・配色・混色 美しい配色と混色のテクニックをマスターする』2013年)

 



 「私たちは外界の物体をあるがままに知覚しているのではなく、物体の印象を自身の神経器官で認識しているにすぎない。しかも、この世に生まれた瞬間からつねにそうしているのである。」(ヘルマン・フォン・ヘルムホルツ『人間の視覚』1855年


つまり、自分はりんごを赤いと思っているから赤に塗ろうと思うわけであって、実際に見ているりんごはその時必ずしも赤いというわけではないということで、これがとても自分にとってはショックなことだった。目に見えるものすら認識を間違えてしまうなら、普段生活しているうえで起こりうる目に見えないものなんてもっと分からないではないか、そんなことを思ってとても不安な気持ちになってしまった。

 後日そのことをカウンセリングで話した時、先生が教えてくれたいくつかのこと。
・目で見るだけじゃなくて、耳や鼻など感覚器官をすべて使って対象を観察して、感じてみるとよい。
・人の気持ちなど目に見えないものはそもそもわかりようがない。もし目に見えたとしても、それを“わかる”ということはとてもとても難しい。でも何とか対処しながら生きていかなくてはいけない。その時起こった出来事や自分が思ったことを記録、蓄積して統計を作ってみるとよいのではないか。そうすれば次に似たような出来事が起こった時に、対処できる確率を増やしていくことができる。それをするためには周囲のことを注意深く観察して、きちんと記録することが大事。


いつか今描いている猫の家族に、自分の感じたその猫の絵を見せてあげられるようになりたい。

山に登ろうとした

ここ2日ほど調子が悪くて、布団に寝るばかりになっている。
感じとしてはトンネルみたいに出口が見えるようなものではなくて、四肢の先に重りをつけて、水中をどんどん沈んでいくような感覚だ。沈んでいく不安はあるけど、なんでか息を止めていても平気だし、周りの水の温かさが心地よい気すらしてくる。ただ、本や映画が、浮き上がって手から離れていってしまうのが寂しい。

 

人と話すことは楽しいし気晴らしになるが、話すときに一方的になってしまいよくない。言葉数の多さが、話の解像度をあげるわけではない。間を取り持つ言葉はぷかぷか浮かんでいずれ自分に矢のように降りかかってくる。話した言葉の大きさが、背中にずっしり重くなってのしかかる。

 

先週ふと山に登ろうと思いたち、電車でほど近い山へ登ろうとした。
一歩一歩身体は上に登っているはずなのに気が重くなっている。自分の口にした言葉や不安がどんどん降り積もってきて、気がついたら沈んでいた。その時と同じだ。ただ家の暖房の分温かいそれだけだと思う。

 

早く山と海をみたい。

 

大福を食べた。

 

 

 夜中ふと目が覚め、お腹がすいていることに気がつく。昨日買ってまだ食べていなかった3つ入りの大福を1つを食べ、なんだろう罪悪感を感じてのこり2つを包んでプロテインを飲んだ。肌寒さを感じてお風呂を沸かし、もう一度湯につかる深夜3時。42度のお風呂につかると、もう一度眠れそうな気がしてお風呂をあがって寝た。

 

  最近時間があるので本を読む機会が増えた。映画も見たいものがたくさんあるが、何分集中力の持続が難しいため、本のようにいつ栞を挟んで閉じてもいいようなものがいい。

 

 本を読んでいる時間は、自分の時間を著者に預けて”物語”や”著者の頭の中”へ行くことができる気がする。ここではないどこか。最近読んでいるペルーが舞台のラテンアメリカ小説を読んでいたら、南米のよしみでブラジリアンジャズを聴いてみてそれはそれは衝撃をうけた。そんな行き当たりばったりさが、最近の生活のほとんどだ。

 

 ただ本を読むことは僕自身の時間にどのように影響しているのか、考えてみたいと思った。最近は先ほどあげたような関連性や偶然に身をまかせて過ごすことが多く、ひとつの物語からまた何かを見つけて、どんどん自分の見知らぬ方向へ進んでいく。帰りを決めない散歩みたいな気分だ。

 

 その一方で、僕自身の時間(ある種の物語)を見つめることを、本を読むことでを避けているような気もして、先ほど起こった僕自身の出来事を冒頭で書き起こしてみた。なんて味がしない出来事ばかりだろう。ちゃんと自分の思考とか、日記が書ける人はすごい。僕の日記みたいなものがいつか黒歴史になりませんように。まだ顔を見せない朝日にお祈りしておく。

 

 そんな訳で今日も朝。最近はこの時間には朝焼けが見えるのだけど、まだ暗いから今日は曇っているのかもしれない。それもまだわからない。

 

畑を耕してみる

 

 

 ぼくはこんな文章を書いていいものだろうか。

 

数年触っていなかったブログのパスワードを思い出しながら思う。
というのはそれは僕がちょっとした身体の不具合により休職しているからで、
「こんなことをしている余裕があるなら、仕事できるんじゃない」とか、
「仕事を休んでいるのにいいご身分ね」などと、僕の頭議会から批判がごうごうと湧き起こっているからである。この世界にも同じような気持ちを抱かれるかたがいたら、申し訳ないとしか言いようがない。すぐにこんなものは丸めて捨てて、もう不快な気持ちにさせないように雲の中へ隠れることにする。

 

 ではなぜ今これを書いているのか、

 

それは僕にもてんで分からない。「書いてみたらいいんじゃない」って夜明け前のこんな時間に身体から声が聞こえた。だからそうしているとしか言いようがない。この頃はもっぱら自分の気持ちや身体に振り回されてばかりで、これがいったいどう言うことなのか、僕にもよく分からないので流れに身を任せてみるしかないのである。

 

 昔詩集か何かだったか、「感情の畑を耕す」という言葉に出会ったことを思い出す。今の自分に必要なことを言葉にするなら、きっとこんな感じなのだろう。日々の暮らしのことを書く中で自分のこころの畑を耕すこと。今から耕しておけばきっと、暖かくなることには芽がでるかもしれないし、それを待つことが大事な気がしている。
きっと今の自分に必要なことなのだろうと、頭議会をなんとか静かにさせる。

 

 そんな始まりなので、どういったことを書いていくとかどれだけ書いていくかは未知数だが、流れに身を任せてみようと思う。たぶん日記のようなものになるはず。

 

 このくらいの時間に起きているとき、ユリー・シュルビッツの『夜明け』という絵本を手に取ることがある。この本の舞台は、音のない静かな山。エリック・ロメール監督の『レネットとミラベル/四つの冒険』という映画でも、夜と朝の間には1分間だけ静寂の時間があるといい、2人の少女がその時間を目指して外に出かける場面がある。どうやらこの世界には全く音のない時間と場所が存在するらしい。以前山に何日か登り、夜中星空を眺めた時に似た経験をしたのだが、今は周りにずっと音があり、その時の感動をうまく思い出せなくてもどかしい。
 こんなにも音に囲まれている場所で生きているなんて、最近まであまり感じたことはなかったなと思いながら、今日も夜と朝の間の1分間を待ってみることにする。

 

今朝はこんなところで。