畑を耕してみる

 

 

 ぼくはこんな文章を書いていいものだろうか。

 

数年触っていなかったブログのパスワードを思い出しながら思う。
というのはそれは僕がちょっとした身体の不具合により休職しているからで、
「こんなことをしている余裕があるなら、仕事できるんじゃない」とか、
「仕事を休んでいるのにいいご身分ね」などと、僕の頭議会から批判がごうごうと湧き起こっているからである。この世界にも同じような気持ちを抱かれるかたがいたら、申し訳ないとしか言いようがない。すぐにこんなものは丸めて捨てて、もう不快な気持ちにさせないように雲の中へ隠れることにする。

 

 ではなぜ今これを書いているのか、

 

それは僕にもてんで分からない。「書いてみたらいいんじゃない」って夜明け前のこんな時間に身体から声が聞こえた。だからそうしているとしか言いようがない。この頃はもっぱら自分の気持ちや身体に振り回されてばかりで、これがいったいどう言うことなのか、僕にもよく分からないので流れに身を任せてみるしかないのである。

 

 昔詩集か何かだったか、「感情の畑を耕す」という言葉に出会ったことを思い出す。今の自分に必要なことを言葉にするなら、きっとこんな感じなのだろう。日々の暮らしのことを書く中で自分のこころの畑を耕すこと。今から耕しておけばきっと、暖かくなることには芽がでるかもしれないし、それを待つことが大事な気がしている。
きっと今の自分に必要なことなのだろうと、頭議会をなんとか静かにさせる。

 

 そんな始まりなので、どういったことを書いていくとかどれだけ書いていくかは未知数だが、流れに身を任せてみようと思う。たぶん日記のようなものになるはず。

 

 このくらいの時間に起きているとき、ユリー・シュルビッツの『夜明け』という絵本を手に取ることがある。この本の舞台は、音のない静かな山。エリック・ロメール監督の『レネットとミラベル/四つの冒険』という映画でも、夜と朝の間には1分間だけ静寂の時間があるといい、2人の少女がその時間を目指して外に出かける場面がある。どうやらこの世界には全く音のない時間と場所が存在するらしい。以前山に何日か登り、夜中星空を眺めた時に似た経験をしたのだが、今は周りにずっと音があり、その時の感動をうまく思い出せなくてもどかしい。
 こんなにも音に囲まれている場所で生きているなんて、最近まであまり感じたことはなかったなと思いながら、今日も夜と朝の間の1分間を待ってみることにする。

 

今朝はこんなところで。